スーツの教科書を開くと、袖丈の正解はこう書いてあります。 「腕を自然に下ろしたとき、手首のくるぶしが隠れるくらい。シャツのカフスが1〜1.5cmほど覗く長さが最も美しい」
ですが、仕立て屋として現場に立ち続けていると、「その教科書の正解をあえて破らなければ、100点満点にならない瞬間」に何度も出くわします。
その代表的な経験が、以前仕立てさせていただいた「オーケストラでフルートを吹いているお客様」のブラックスーツでした。
客席を見下ろすダウンライトに、何を着せるか?
そのお客様が最初にご来店されたときのご要望は、とてもシンプルでした。
「ステージのダウンライトに映える、綺麗なブラックスーツを作りたい」
ひと口に「黒」と言っても、光を吸い込んで平坦に見える礼服の黒もあれば、光を受けて鈍く艶めく上質な黒もあります。 オーケストラの舞台は、天井からの強いダウンライトに照らされる特殊な空間です。
そこで選んだのが、極細の原毛で織り上げられた「Super130’s」の上質なウール生地でした。
ギラギラした下品なテカリではなく、ライトを浴びた瞬間にしっとりと吸い付くような深い光沢と艶が出る。 客席から見上げたときに、遠目からでも「あ、あの人の着ている服は本物だな」と一目でわかる、気品ある美しい黒です。
生地選びは完璧でした。 ですが、本当の勝負はそこからでした。
「フルートを構える」という動作の落とし穴
雑談を交わしながらじっくりお話ししていく中で、その方が「フルート奏者」であることが分かりました。
その瞬間、
「もし最初に言われた『映える黒スーツ』の言葉通りに、直立不動の姿勢のまま教科書通りに採寸して作っていたら、大失敗していたかもしれない……」
人間の腕は、前に伸ばしたり、上に持ち上げたりすると、生地が肘側に大きく引き込まれます。 特にフルートという楽器は、両腕を水平近くまで持ち上げ、顔の横で横向きに構え続けます。
もし、まっすぐ立った状態で「シャツが1cm覗くジャストサイズ」に合わせて仕立ててしまったらどうなるか?
楽器を構えた瞬間、ジャケットの袖がグッと二の腕の方へ引き上げられ、シャツの袖がガバッと出過ぎてしまうか、最悪の場合は手首の素肌が客席から丸見えになってしまうのです。
ステージ上で観客の視線が一番集まるのは、楽器を奏でているまさにその瞬間です。 その時に手元がツンツルテンに見えてしまっては、どれだけ高級な生地を使っていても台無しです。
「袖丈+2cm」と「鎌を浅くする」という仕立ての正解

そこで私は、お客様に実際にお店の中で「フルートを構えるポーズ」を取ってもらいました。
腕を持ち上げ、指を動かす角度をミリ単位で確認しながら出した答えが、
「袖丈を、通常より【2cm長く】する」
という判断でした。
まっすぐ気をつけの姿勢で立っているときだけを見れば、袖口が親指の付け根近くまで来て、「ちょっと袖が長いんじゃない?」と感じる長さです。 普段のビジネススーツであれば、私自身もお客様に絶対に勧めない寸法です。
ですが、腕を持ち上げてフルートを構えた瞬間、引き込まれた袖が手首の絶妙な位置にピタリと収まり、シャツの出具合も完璧な黄金比を描きました。
さらに、もうひとつ重要な補正を入れました。 それは、「鎌(アームホールの底)を浅くする」ということです。
実はこれ、「筋トレをしている人」とは全く逆のアプローチなんです。
ジムで身体を鍛えている人は、二の腕の後ろ側(上腕三頭筋)がボコッと発達しています。そういう人が鎌を浅く(高く)してしまうと、腕を下ろしたときにアームホールの底に太い三頭筋が引っかかって、脇が締め付けられて痛くてたまりません。だから筋トレ体型には三頭筋が逃げるゆとりが必要になります。
ところが、フルート奏者はその逆です。 腕を水平に高く持ち上げ続けるため、もし鎌が深い(底が下がっている)と、腕を持ち上げた瞬間に脇の生地が引っ張られて、ジャケットの身頃全体がゴバッと一緒に浮き上がってしまうのです。
あえて鎌をキュッと浅く(高く)設計することで、腕をいくら持ち上げても、胴体の生地が引っ張られずにストンと落ち着いてくれます。

幸い、今回のお客様は比較的スマートな普通体型の方でした。だからこそ「鎌を浅くして、袖を伸ばす」というシンプルな補正が劇的にハマったわけです。 もしこれが、「筋トレで三頭筋がゴツいフルート奏者」だったとしたら……三頭筋を逃がしながら腕の可動域を確保するために、アームホールのカーブを歪ませるなど、全く別のアプローチを取らなければならなかったはずです。
「フルートを吹いている瞬間が一番美しく、かつノンストレスで演奏できる姿」を獲りに行く。
これこそが、型通りのマニュアル採寸では絶対に辿り着けない、オーダースーツの真骨頂です。
最初から「フルート用です」とは言ってくれない
この仕事をしていてつくづく思うのは、「やっぱり対話がすべてだな」ということです。
お客様は最初から「フルートを吹くときに一番綺麗に見える袖丈にしてほしい」なんて、専門的な注文の仕方はしてくれません。 「ステージで映える黒いスーツがほしい」という、大枠の希望を口にしてくれるだけです。
もし私がろくに話も聞かず、「はいはい、ブラックスーツですね」とメジャーを当てて機械的に測っていたら、演奏中に手首が丸出しになり、腕を上げるたびにジャケットが持ち上がるスーツをお渡しして、お客様に恥をかかせていたはずです。
- どんな仕事をしていて、どんな場面で着るのか
- その服を着ているとき、身体はどんな動きをしているのか
- 立ち姿を見せたいのか、座り姿なのか、それとも何かを構えている瞬間なのか
世間話をしながら、コーヒーを飲みながら、相手のライフスタイルや本音をじっくりと聞き出す。 だからこそ、「じゃあ、あえて袖を2cm伸ばして、鎌を浅くしましょう」という、その人のためだけの唯一無二の提案ができるのです。
結論:スーツは「生きている身体」のためにある
スーツは、ショーウィンドウのマネキンに着せるための置物ではありません。 歩き、座り、車を運転し、時には楽器を奏でる、「生きている人間の身体」を一番輝かせるための道具です。
- デスクワークで一日中パソコンを打つ人
- 車の運転が多く、肩まわりを締め付けられたくない人
- ステージの上で、楽器とともに最高のスポットライトを浴びる人
あなたの日常の姿勢や動きに寄り添わないスーツは、どれだけ値段が高くても本物とは呼べません。
「自分の仕事の動きに、どうしても既製品が合わない」 「大事な本番の舞台で、最高の立ち姿を見せたい」
そんな悩みをお持ちなら、ぜひ佐々町のL’ECRINへお話しにいらしてください。 あなたの身体が一番輝く瞬間を、対話の中から一緒に見つけ出します。


