上半身を鍛えている方が「既製品のジャケットが入らない」と悩むのと同じように、下半身に筋肉がついている方は「スラックス選び」でほぼ100%挫折します。
野球部やサッカー部出身の方、あるいは日頃からスクワットで下半身を追い込んでいる方なら、一度はこんな経験があるはずです。
- 太ももに合わせると、ウエストに拳が何個も入るほどガバガバになる
- ウエストに合わせると、太ももやお尻で引っかかって上に上がらない
- ベルトを無理やり締めると、ウエスト周りの生地がクシャクシャに寄って不格好になる
私は長崎県佐々町で13年間オーダースーツを仕立ててきましたが、これまで採寸してきた中で最も下半身のバランスに驚愕したのが、現役の競輪選手のお客様でした。
今回は、そのときの生々しい採寸データをもとに、なぜ下半身ががっしりした人は既製スラックスで絶対に格好良くなれないのか、そしてプロはどうやってその難題を解決するのかをお話しします。

普段着はスマート。だが脱いでメジャーを当てると異次元だった
そのお客様が来店されたとき、パッと見の印象は「引き締まったスマートな体型」でした。服の上からでは極端な太さは感じません。
しかし、いざスラックスを仕立てるために採寸を始めて、私は思わずメジャーを二度見しました。
- 太もも周り(ワタリ):65cm
- ヒップ周り:105cm
- ウエスト:70cm
成人男性で太もも65cmといえば、スポーツを本格的にやり込んでいる人でも滅多に出会えない太さです。 (ちなみに、前回の記事でお話しした元ボディビルダーのお客様の『腕周り65cm』がどれだけ規格外だったか、この数字を見れば改めて伝わるかと思います。あの太ももと一緒の大きさでしたから……)
ウエストが70cmと極限まで絞られているのに対し、太ももは65cm。ウエストと太ももの差がたった5cmしかないという、既製品のサイズ表では絶対にカバーできない異次元のバランスでした。
これまで野球やサッカーなどのアスリートも数多く仕立ててきましたが、彼らの場合は太ももが太いと、それなりにウエストやふくらはぎも太くなります。 しかし競輪選手は違いました。太ももとお尻だけが爆発的に発達していて、ふくらはぎは普通、ウエストはキュッと締まっている。
アスリートの中でも極めて特殊な体型であり、この数字を見た瞬間、私は「既製品は100%無理だな」と確信しました。
プロの仕立て:ただ広げるだけでは「お尻の下」がだらしなく余る
下半身ががっしりした人が既製品を穿けないもうひとつの大きな壁が、「出尻(でじり)体型」です。
競輪選手のように日常的にペダルを強く踏み込んでいる方は、大臀筋が極限まで鍛え上げられているため、ヒップの頂点が高い位置にあり、後ろへ「プリッ」と突き出た形をしています。
この体型を仕立てる際、プロとして絶対にやってはいけない落とし穴があります。 「お尻が大きいなら、ヒップの寸法を全体的に大きくすればいい」という単純な広げ方です。
ただヒップの数値を大きくして余裕を持たせるだけだと、確かにお尻は入ります。しかし、ゆとりがありすぎるせいで、お尻の下(太もも裏の付け根あたり)に余分な生地がクシャクシャとだらしなく余ってしまうのです。
そこで私が施したのは、以下の設計です。

1. 「出尻補正」を限界値まで入れた
ヒップのトップ位置が高く後ろに突き出ているため、型紙の「出尻補正」をいっぱいいっぱいまで入れました。後ろ股上をしっかり確保しつつ、突き出た頂点を包み込む立体的なカーブを作ります。
2. お尻の下のもたつきを削り、無駄な余りを解消
出尻補正を入れることで、ヒップトップには必要なゆとりを持たせながら、お尻の下に余計な生地がダブつかないギリギリの美しいラインを攻めました。
3. 「ふくらはぎが普通」を活かしたテーパード
太もも65cmに合わせて裾まで太く落とすと、ただの太い「土管ズボン」になってしまいます。このお客様はふくらはぎがキュッと引き締まっていたため、膝から裾へ自然に細く絞り込み、太ももの太さを感じさせないシャープなシルエットに仕上げました。
多くの人が勘違いしている落とし穴:「太ももを細くしたら、なぜか穿けなくなった」
スラックスのオーダーや補正で、お客様から最も多くいただく相談のひとつに、 「お尻周りはちょうど良いけど、太ももが太い気がするからモモを小さく(細く)してほしい」 というご要望があります。
そして、言われるがままにモモ幅を詰めてしまった結果、ほぼ100%の方がこう言います。 「めちゃくちゃ穿きにくくなった……」「座るとキツくてたまらない……」と。
なぜ、こんな失敗が起きるのでしょうか? 理由は極めてシンプルです。お客様が思っている「モモ」と、スラックスの構造上の「モモ」の位置が全く違うからです。

スラックスの「モモ」は、した尻(お尻の下)から始まっている
多くの方は、「太もも周り」と聞くと太ももの真ん中(大腿部の中央)をイメージします。 しかし、スラックスの型紙において、モモ(ワタリ)の基点はお尻のすぐ下、つまり「した尻」からスタートしているのです。
そのため、モモ幅を細く詰めるということは、「した尻のゆとりを削る」ことと完全にイコールです。 ここを削ってしまうと、立っているだけでもお尻の下が引っ張られて窮屈になり、椅子に座った瞬間、生地が逃げ場を失って太ももとお尻が締め付けられる地獄を味わうことになります。
実は偉そうに語っている私自身も、過去に自分のスラックスでこの失敗を何度もやらかしました。 「もう少し細く見えるように……」とモモを攻めては、座った時に後悔する。身をもって痛い目を何度も見てきたからこそ、「これは絶対にやってはいけない」と断言できます。
スッキリ見せたいなら、「モモ」ではなく「膝から裾」を絞る
「じゃあ、太ももが太い人はスッキリ細身に見せるのを諦めるしかないのか?」 というと、全くそんなことはありません。解決策はとてもシンプルです。
太もも(した尻)には必要なゆとりをしっかり残したまま、「膝から裾にかけて」をキュッと絞る(テーパードさせる)こと。
スラックスはもともと裾に向かって細くなるテーパードの構造を持っています。 視覚的に人の目がいくのは、太ももの付け根ではなく「足首や膝下のライン」です。膝下を適正に絞ってあげるだけで、太ももやお尻のストレスはゼロのまま、誰が見ても驚くほど足が長く、スマートで細身なシルエットが完成します。
「ある程度スリムに穿きたい」という要望と、生地選びの裏側
今回のお客様からは「太いからといってダボダボにするのではなく、ある程度スリムに格好良く穿きたい」という明確なご要望がありました。
そこでご提案したのが、「ストレッチ(ポリウレタン・ポリエステル混紡)の効いた生地」です。
筋肉の動きに合わせて伸縮するため、細身のシルエットに攻めてもストレスなく動くことができます。
しかし、ここでお客様に必ずお伝えしなければならないプロとしての責任があります。それは、「メリットだけでなく、デメリットも包み隠さず話すこと」です。
【画像挿入④:生地のメリット・デメリット比較図解】

私はお客様に、こう正直にお伝えしました。
「ストレッチを入れることでご希望通りのスリムなシルエットは作れます。 ただし、ポリエステルなどの化学繊維が入るため、天然のウール100%に比べて静電気が起きやすくなります。 また、太もも同士やお尻が擦れる部分が、長く穿き続けるうちに摩擦でテカリやすくなるという弱点もあります。」
これらをしっかり納得いただいた上で、お客様にとって最もストレスのない生地を選んでいただきました。
結論:「高い生地=正解」ではない。着る場所とTPOに合うものが一番良い
世の中には「インポートの高級ウール生地こそが至高」という風潮もあります。確かにイタリアやイギリスの高級生地は、素晴らしい艶と手触りを持っています。
しかし、「高い生地が良いと一概に言えない」のがスーツの奥深いところです。
いくら数十万円する高級ウール生地であっても、アスリートのように筋肉が躍動する人がタイトに仕立ててしまえば、生地が突っ張って破れてしまうリスクが高くなります。 日常でガシガシ動くビジネスマンやアスリートにとっての正解は、超高級生地ではなく、耐久性と伸縮性を兼ね備えた生地であることも多いのです。
一番大切なのは、ブランドネームや生地の値段ではなく、「その人の体型」「着用シーン」「TPO」に合っているかどうか。
太ももやお尻が太くてスラックス選びを諦めていた方、あるいは「細身で格好良く穿きたいけれど既製品では破れそう」と悩んでいる方は、ぜひ一度ご相談ください。
あなたの身体の個性と、あなたが着るリアルな日常に一番寄り添った一本を仕立てます。

